冬が来た リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 15, 2020 森に冬が来た。 昨日の夜からちらちらと雪が降り始め、起きたら冬の朝だった。こんな日は、高村光太郎の「冬が来た」という詩を声に出してみる。 きっぱりと冬が来た 冬よ 僕に来い 刃物のやうな冬が来た(抜粋) これらの言葉が体に入ると、潔く冬と向き合おうという気持ちになってくる。 背筋が伸びる、大好きな詩。 森の長い冬が、始まった。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント Yukio Fukushima2020年12月15日 22:11ブログ開設、おめでとうございます!詩的ですね。寒波到来の本日にぴったりです。返信削除返信返信コメントを追加もっと読み込む... コメントを投稿
風の正体 8月 25, 2024 二十四節気だと、今年の立秋、秋の始まりは8月7日だった。二十四節気は「皆の衆、皆の衆(三波春夫調)、これから次の季節が始まるぞ、準備万端怠りなく。」と、季節の変わり目の鐘を鳴らす役目だ。その鐘の音が響き終わった頃、8月23日からは処暑に替わる。「暑さが収まるぞ。秋が来たぞ。いつまでもキリギリスをしていてはだめだぞ。」の教え。 二十四節気ができたのは今から2000年前以上前の中国で、日本に伝わったのは1500年前くらいだ。地球に寄り添った暮らしがあった。もちろん何年かに一度の、いつもとは違う気象、例えば「日照りの時や寒さの夏」は人々を泣かせたり、途方に暮れておろおろ歩かせたりし、たくさんの命を奪った。それでも「種蒔き桜」のように、多くの年はいつもと変わらない季節が訪れたはずだ。 二十四節気は天文学で絶対的だが、雑節(ざっせつ)は、日本で作られた、いわゆる農事暦が主となっている。だから、二十四節気よりは、日本の風土や農耕が主だった人々の暮らしに根ざしているので馴染みやすい。旧暦の「八朔」はまもなく。そのあとに「二百十日」や「二百二十日」がやってくる。旧暦は新暦のおよそひと月あとだから、これら三つは台風が作物(主に稲)を襲う「三大厄日」だ。今日もニュースで台風に警戒するようにと訴えていた。 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏之) 目に見えない風がこの和歌の肝だ。この時代から正体のはっきりしない「風」のついた言葉が日本語を豊かにしているようだ。抽象的にも具体的にも、「かぜ」という和語より「ふう」と読む漢語が。 「風情」と「風流」の違いを考えてみた。 夏の盛りに日陰に風鈴を吊るし、風を音として味わう。「釣り忍」も軒に吊るしてあったら、目にも涼しい。西日が隠れた縁側で冷や酒(冷酒ではない。燗していない常温の酒)だな。風鈴も釣り忍も風情があり、風流だ。風情と風流は同じ意味かと思ったら、これはあくまで自分の感覚だが、違いがあるように感じた。暑い夏なら風鈴も釣り忍も「風情」であり、「風流」だ。でも、立秋を過ぎると、「風流」からは外れる。流行遅れだ。ところが、蟋蟀の鳴く音に交じって風鈴の音が聴こえてきたら、それはそれで「風情」がある。涼でなく冷を告げる音として響く。 「風景」「風光」「風雅」「風月」 「風采」「風天(フーテンの寅... 続きを読む
枯葉よ~♩落ち葉よ~♩ 11月 29, 2024 11月の最後の日の朝、初雪が降った。風がなく、空からまっすぐ下りてきた。雪もまだ初々しく遠慮がちで、雨に変わっては、また雪に戻ったりしている。冬が進むごとに、主役に成長し、もっと力強く降るようになるだろう。季節が秋に戻ることはないだろう。アイヌ語で「雪が降る」は「ウパシ アシ」。「アシ」は「走る」や「雪や雨が降る」の意味で、天から一片ひとひらの雪がコタン(住んでるところ。村)目がけてかけっこして遊びに来るという意味のようだ。 森の木々はすっかり冬木立となり、色彩は一気に茶色になった。森を歩くと、「落ち葉」がやわらかい。吹きだまりになっているところで転びそうになった。落ち葉を踏む音はくすぐったい感じがする。いや、待てよ。踏んでいるのは「落ち葉」というべきか「枯葉」と言うべきか。どっちでもいいのだけれど、ちゃんと使い分けられたら、もっと季節を楽しめる気がする。 童謡「たきび」(作詞:巽聖歌 作曲:渡辺茂)では、「落ち葉焚き」という言葉が歌われている。子どもの頃は、冬が来るとよく焚き火を見かけた。見かけると、友だちと一緒に吸い寄せられるように赤い焚き火に近寄っては煙の匂いを嗅いだり、自分の方に煙がやってくると逃げ回ったり、焚き火の中に隠してあるだろう焼き芋のおこぼれを期待したりしながら道草を楽しんだ。今は大っぴらに焚き火ができなくなり、冬の晴れた空に焚き火の煙が昇っていく風景を見かけることはなくなってしまった。 O・Henry(オー・ヘンリー)の「最後の一葉」は蔦の葉だ。落ちていないので、あれは落ち葉ではなく落ちそうな「枯葉」だな。葉の先の方から枯れていく「末枯れ(うらがれ)」だ。「病葉(わくらば)」とは違う。「病葉」は夏の季語で、夏の盛りに青々と茂る葉の中で寂しく色が枯れてしまった葉だ。 「枯れる」のもつ意味はなかなか奥深いように感じる。万物の全盛期を過ぎたことを表す意味もあるし、芸や技、趣、人格などに外連味(けれんみ)がなくなり、完成されたことを表すときにも使われる。「あの役者の芸は枯淡の境地を感じさせる。」とは褒め言葉で、間違っても「落ちる」では表現できない。 枯れるの語源は「離る(かる)」で「涸れる」や「嗄れる」とも意味は近い。「枯れ木」となると、もう命を終えた木や、新しい季節のために葉を落とした木の二つの意味があるから、文脈で判断しなければならない。... 続きを読む
夏の飲み物 7月 29, 2024 今日はいつもの夏が戻ったように涼しい。エアコンはいらない。南の国に住んでいたのに、雪ニハマケナイガ夏ノ暑サニハマケル。 暑いと冷たい飲み物を摂り過ぎてしまいお腹をこわすので、自制している。どんなものを飲んでいるか、振り返ってみた。 筆頭は、この地域の水。軟水でカルキ臭もなく、一番好きだ。冷蔵庫で冷やさなくても蛇口から出る水はいい感じで冷たい。貯水槽に山椒魚がたくさん入り込み、水の出がわるくなって点検に出動したときがあった。公営の水道でなく、地域で管理しているので、以前は持ち回りで班長になると管理の一端を担っていたのだ。年1回の水源地清掃ではトラックの荷台にすし詰めになって乗り、沢を渡り、まだ若かったみんなで草刈りをしたものだ。休憩時には沢の水で喉を潤し、きれいな山紫陽花を見つけると、若い芽を1本手折り(たおり)大切に持ち帰って挿し木をして森に植えた。今でもこの森でひっそりと咲いている。挿し木のやり方もその時にみんなが教えてくれた。今は高齢化が進み、人も減り地域は「寂しく」なった。それらの仕事は若い世代ががんばってやってくれているが、「淋しさ」もある。(「寂しい」と「淋しい」の使い分け) この夏によく飲んでいるのがコーン茶。知り合いのもつ鍋屋で買ってきた。韓国では健康茶としてよく飲まれているらしいが、韓国に行ったときは飲む機会がなかった。温かいコーン茶はほのかに甘い。煎ってあるので冷やすと麦茶のような味だ。ただ、どのお茶もそうだが、飲み過ぎはだめらしい。実ではなくとうもろこしの「ひげ(めしべ)」を干したあとに煎って作る「ひげ茶」というのもある。猫の額よりせまい畑でとうもろこしを育てているが、ようやくひげが伸びてきたので、収穫したら作ってみよう。 龍井(ロンジン)茶は中国杭州市の特産だ。5月に旅して摘んできた。製法は蒸さずにすぐ焙煎する。それまで緑茶を嗜む習慣はなかったが、一口含んだら茶の葉のすっきりした香りが体中に染み渡り、飲み干すと、自分はこの土地とつなっがていたことを感じた。大げさだが、大地や太陽、雨、風で自分と繋がっているのだと感じた。懐かしさ、とも言える。ずいぶん前のブログに書いたが、トルコで「8月6日のチャイ」を飲んだときも同じようにトルコと自分の繋がりを感じた。考えてみるとそれは当たり前のことだ。水も茶も地球の産物だ。それを飲むことは、... 続きを読む
ブログ開設、おめでとうございます!
返信削除詩的ですね。寒波到来の本日にぴったりです。