生きている 生きていく

 次の次の冬に使う薪を取るために、小楢2本と山桜2本、みずの木を1本切り倒した。大切に燃やせばひと月分はまかなえる量だ。

薪を取るための伐採は、秋の彼岸から春の彼岸まで。そうでないと、木が水を吸い上げ、乾くのに余計時間がかかってしまう。「みずの木」はその名の通り、あっという間に切り株から水が浸み出してきた。内にある命の力だ。

倒されても、木はその命を終えたわけではない。すべての木とは言えないが、根はしっかりと見えない地中で生き続け、切り株からはやがて新しい芽が出てくる。「萌芽」(ほうが)だ。倒されても木は生きていて、これからも自分自身として生きていく。強さは外でなく、内にあるのだ。

あの日から、まもなく10年目を迎える。たくさんの命が奪われ、悲しみに包まれたふるさとに静かに放射能が降り注いだ早春の日。

「10」という切りのいい数字のせいか、今年になって新聞やテレビで「10年」という言葉がついた見出しや番組名をたくさん目にするようになった。「節目」らしい。忘れないように関心をもってもらうためには必要な言葉だと言える。しかし、「節目」は切りがいいだけで、意識や抱いている想いとしての「区切り」とはならない。「区切り」は一人ひとり自分でつけるものだ。「10年」が一方的に情緒を促す言葉であってほしくはない。どうしても、いつまでも、「区切り」をつけられないことがある。自分の心に正直に向き合えばいい。

あの年、春も夏も秋も、やがて冬になっても、森は心に届かなかった。森を避けて、時間が過ぎることだけを願っていた。芽吹きは圧倒的で怖く、太陽は眩しく、紅葉は場違いのように華やかすぎた。雪さえ偽物に見えた。

次の年。山桜の枝に淡い緑を見つけ、やがて白い花が咲いた。繰り返されてきた春なのに、いつもの春より美しく感じた。

「自分は幸いにも生きている。だから、これからも生きていく。」

山桜を眺めながら、自然にそう思えた。そう思いたかったのかもしれない。あの日の前も、あの日からも変わらずに山桜は命を続けていたのだと気づいた。自分の「区切り」はその瞬間だ。そして10年目を迎え、今日も生きている。

明日も生きていく。そのためにまずは薪を作ろう、次の次の冬のために。








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