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6月, 2022の投稿を表示しています

夏は来ぬ

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”人生が少しだけ うるさくなってきたけど 逃げ場所のない覚悟が 夢にかわった” (「シャボン玉」 長渕剛) 「変わった」「替わった」「代わった」「換わった」今日の気分はどれかな。 しかし、こう続くとそろそろ覚悟をしないといけない。 何が続くのかと言うと、、、まずは夏の森の一日から。 夏至は過ぎたけれど、6月初めから8月お盆まではふと懐かしさがこみ上げてくる季節だ。かぶと虫、からす瓜をくり抜いて作ったランタン、日暮らしの切ない鳴き声が聞こえると一気に涼しくなったものだ。 朝は野鳥の鳴き声で目を覚ます。朝4時頃だ。そこから一気に大気は明るくなる。ここらの気温は20℃を下回る。油断して寝ると、朝に鼻水を啜る。啜るなら鼻水よりコーヒーがいい。20年以上、「ゆら」のコーヒー豆と一緒の朝の時間だ。いつもと同じ1.5杯分の時間、遠く縄文時代の先輩の生活を想像してみる。外で飲む、夏も冬も。 「桑の実は絶品スイーツだ。」とか、「岩魚はまだ脂はのってはいないだろう。」とか、 「日本ざりがには丸々太って旬だぞ。」とか。前の年に蓄えた団栗は、芽を出してしまってまずい。炭水化物がないぞと、話していたかな。 その頃、猿も鹿も熊も先輩の住む森には訪ねてこなかっただろう。行けば食料として歓迎されるからだ。 二千年以上の歳月を経て、彼らはこの森を怖がらなくなった。彼らが食料になることは滅多になくなった。特に原発事故以降は。彼らの舌は人間並みに肥えた。丸々と太ったアンデスからやってきたでんぷん率の豊かなじゃがいも。果物のように甘い「悪魔の実」のトマト、脂肪たっぷりのとうもろこし。ここは彼らにとって美食の森だ。いちじくなんて気絶するくらいおいしいだろう。 毎日、彼らは訪ねてくる。日本語は通じない。去年はじゃがいもとトマト、かぼちゃは彼らのごちそうになり、人間の口に入らなかった。 そこで今年は、保護犬だった愛犬に不寝番を託した。ところが、彼女の鳴き声はあまりにも美しく響き、しかも一晩中がんばるので、結局自分が不寝番の片棒をかつがされる羽目になった。朝になり、のんびり寝ている愛犬を見て一晩中頑張れる理由を悟り、同時に人間の浅知恵に気づいた。「さる」の語源は、知恵が「勝る」が語源という説がある。 逃げ場所もないけれど、覚悟もない。でも、心の半分にはうれしさがある。猿はこの森が好きなのだ。 それでもちょっといた...

天上大風

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  梅雨入りし、雨や曇り空が続く。それでも、梅雨晴れ(=五月晴れ)の日は、他の季節よりも青空や日光がうれしい。山からひんやりとした風が吹いてくると、思わず目をつぶって深呼吸してしまう。  風。  難しい言葉ではないし、使い方に迷ったこともなかったけれど、ふと気になって辞書を引いたらたくさんの言葉や意味があった。「沖縄風さっぽろ味噌ラーメン」「天然風味人工調味料」とか一風変わった日本語も作れそうだ。  8月に青森県三沢市を風の吹くまま気の向くままに旅した時のことだ。初めて訪れた町の少し寂れた風景を眺めた。米軍ハウスは「洋風」ではなく完全に「洋式」だな、と変に納得したりもした。夏の風物詩の風鈴の音が涼しげにどこからか風に乗って聴こえてきて、風流さが心地よかった。  晩飯は名物「バラ焼き」に決めていた。風土色豊かな郷土フードで、懐かしい風味だ。お目当ての店を目指して、肩で風を切って歩いていたのは夜7時頃。ここは「おれのおごりだ。」なんて気っ風よくいきたい。  辺りはだんだんと霞んできて、信号の灯りがぼんやりとしてきた。霧というのか、靄(もや)といえばいいのか。昼間の暑気が居座るのを切り裂くような冷たい風が港の方から吹いてきた。これが「ヤマセ」かとすぐ気づいた。気づいたら八代亜紀風に「舟歌」を歌っていたのさ、ダンチョネー。三沢は米軍基地のある街だが、港町でもある。 「ヤマセ」を調べたら、一つは「山を超えて吹いてくる風」という意味。これは、東北地方なら、夏に太平洋側から奥羽(おうう)山脈を越えて日本海側に吹き下ろす乾いた風のことだ。海の反対側の山から吹いてくるから「山背」と漢字で書くのだろう。日本海側の農家に晴天と高い気温を恵み、おいしい米を育む。秋田では「宝風(たからかぜ)」と呼んで歓迎するようだ。  一方、太平洋に面した三沢に吹いてくるのは、これとは別の風。寒いオホーツク海から高気圧に押し出されて流れてくる湿気を含んだ冷たい北東風だ。海から渡ってくるので山の字を使わず「ヤマセ」「やませ」と仮名で書く。太平洋側ではヤマセが続くと冷害に見舞われる。宮沢賢治が11月3日に「寒さの夏はオロオロ歩き」とメモ帳に書いた、その原因になる風だ。そんな風霜(ふうそう)に耐え、今の東北の農家がある。※引用<明鏡国語辞典(大修館)><NHK for School>  ところが、原発事故...

ぼくが目になろう

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 "Swimmy" by Leo Lionni ,Dragonfly Books.  日本版の訳者は谷川俊太郎、好学社出版。でも、光村図書の小学2年生の教科書で日本の子どもたちはスイミーと友達になっていると思う。   クライマックスでスイミーが仲間たちを、そして何より自分自身を鼓舞するために叫んだ言葉は、"I'll be the eye."「ぼくが目になろう。」(谷川俊太郎 訳)  直訳のようであり、だけどもっと深い祈りが込められているようだ。すごいな。 「目」のつく日本語の表現を辞書で調べたらたくさんあった。良い意味でも、否定的な意味でも。体の器官としての「目」はもちろん、「目には目を」はハムラビ法典からやってきたし、「目から鱗が落ちる」は「新約聖書」から。日本語と共通するのは、真理であり、核であり、心の意味。「目は口ほどに物を言う」「目がない」は日本語。"Smoke gets in your eyes" (煙が目にしみる Platters)と英語では負け惜しみが切なく、日本では「新緑が目にしみる」「眼福」など美意識と関わる。「目が死んでいる」は覇気のことだ。  スイミーも、大きな魚が怖くてひっそりと生きていた仲間に" Let's go and swim and play and SEE things"と説く。日本語の「見識」「見聞」「知見」という言葉につながる。 原作で「SEE」と大文字なのは、作者のメッセージだろう。  永遠の恋人オードリー・ヘップバーンが歌う"Moon River"の歌詞には、 "Two drifters,off to see the world.There's such a lot of world to see.' 「流浪の二人は、世界を旅する(まだ見ぬ)たくさんの世界を見るために」 スイミーと同じ価値観だ。 ※ドリフターズ!って奥が深いグループ名だった。ビートルズの来日コンサートの前座だったし。8時だよ、飲み会終了。歯磨けよ! 「目」。鬼太郎の父は目となって鬼太郎を救う。西洋と東洋の接点トルコには「ナザール・ボンジュウ」という厄除けのお守りがある。日本は大きな目玉風船の鳥追いが稲を守っている。日本...

おいしい水

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 天気が不安定だ。晴れて油断していると、大粒の雨や大きな雹が降ってくる。農家は気が気でないだろう。  それでも、水は恵みだ。  この前の冬は、たくさん雪が降った。久しぶりにここいらの冬らしかった。雪が降ったことに安心している自分に気づいて、すっかりここいらの住人だなと思っておかしかった。  雪はやがて飲み水になる。  うちの水は、自治体が整備した水道ではなく、この地域に住む人たちが力を合わせ、知恵を絞り、整えた自主水道だ。  春先、断水したことがあった。原因は、山椒魚。水を貯める配水池に山椒魚がたくさん入って給水口が詰まってしまったのだ。休日だったので、誘われて山椒魚を網で掬って逃がし、通水させた。山椒魚は、きれいな水の指標だ。西の高い山の雪解け水や雨が、何年かして地表近くまで上がってきた伏流水を水源としている。山椒魚は水の味が分かるのだ。  夏には、トラックの荷台に乗せられて水源の草刈りをした。知り合いはみんな元気で若々しかった。山紫陽花が咲いている頃で、それを殖やす方法を教えてもらったり、うわばみ草を摘んだりして、森に住む仲間の連帯感を確かめるいい機会だった。現在は、あの頃力強かったみんなは年を重ね、今では若者にその楽しみを委ねるようになった。  この水は軟水、しかも安い。基本料金は30立方メートルで1500円。超過しても1立方メートル30円だ。毎日遠慮せずに風呂や洗濯、庭の水遣りに使っても、基本料金を超えることはまずない。  炊飯、味噌汁、コーヒー、お茶。でも何よりそのまま飲む水のうまさ。「甘露」だ。  ある夜中、喉が渇いて目が覚め、水が飲みたくて蛇口をひねった。  水の勢いが強過ぎたのだろう、コップに入った水は全部押し出されて、コップには溜まらなかった。何を学ぼうか。  2番目においしい水。  ときどき1番。   水源の山々。永遠に。