8月6日のチャイ
あの日、世界は今よりは平和だった。そしてそれが当たり前だと錯覚して、自分はもっと薄情だった。
16年前の8月6日。朝、トルコの小さな村を一人で散歩していた。旅の相棒の息子はまだ寝ていた。涼しく、空気は乾いて空は青が強い。初めて見る風景を眺めながら、大好きな、旅の朝の時間を味わっていた。
緩やかな下り坂の途中にチャイハネ(茶屋)があった。近所の男たちだろう、お喋りとチャイを楽しんでいる。小さな村だ、よそ者に気づくと話し声は止み、中が暗いチャイハネからたくさんの目が、日差しに照らされて歩くよそ者を見る。嫌な気は起きなかった。反対の立場なら自分もそうする。同じ地球人だ。
軒下にある丸い小さなテーブルで一人でチャイを飲んでいた老人が、こっちを見つめて手招きした。自分でも不思議なくらい素直に応じて、静かになったチャイハナに向かって道を横切るように歩き出した。履いている靴は乾いた足音を立てた。
「グナイドゥン」(おはようございます)、そう挨拶して老人の目の前の席に座った。
”Japonya?”(日本?)ぼそぼそとした声だ。
軽く頷き、運ばれてきたチャイを一口飲んだ。けっこう濃いめで、角砂糖を2つ入れた。それでもまだ渋い。
しばらく静かな時間があり、突然老人はこちらを見つめてしっかりとした声で言った。
”Hiroshima.”
四つの音は一気に自分の心に押し寄せ、それから自分が今日の意味を忘れていたことへの苦々しさと、異国の、そして異教の老人が遠い日本のこの日を胸に刻み、祈りを捧げていることの崇高さに圧倒され、ただ黙って濃いめのチャイを飲むことしかできなかった。チャイの渋さと角砂糖の甘さのような言葉だった。ようやく心が落ち着き「ありがとうございます。」と日本語とトルコ語で伝え、さっきよりも深々と頭を下げた。
「祈る」の語源は、「い」が神聖なものを意味する「斎(い)」、「のる」は「宣」でもともとは呪力を持つ言葉を発する意味だと言われている。<三省堂 新明解語源辞典より>
Jackson Browne "The Pretender"の歌詞の中の言葉。拙訳だけど。
"And when the morning light comes streaming in
I'll get up and do it again."
「朝日が射す頃僕は目を覚まし、そして、いつもと同じことを繰り返すだろう。」
その旅で履いていた靴と同じモデルの靴を今も履き続けている。何足目になるか。そしてチャイの渋さと角砂糖の甘さが蘇る日が今年もやって来た。
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