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いんいちがいちは、ラップのリズム

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 かけ算九九は、七音と五音の繰り返しのリズムで、日本人には心地よい音数だ。このリズムに親しませることが、かけ算九九の学習に効果的だ。 「いんいちがいち」七音 「いんにがに」  五音 「いんさんがさん」七音 「いんしがし」  五音 「いんごがご」  五音 →「いんいつがいつ」七音 「いんろくがろく」七音 →「いんむがむ」五音 「いんしちがしち」七音  「いんはちがはち」七音 →「いんはがは」五音 「いんくがく」  五音 →さて? 欲を言えば、「いんごがご」「いんろくがろく」「いんしちがしち」で繰り返しのリズムが破れているので、→のように唱えたら、もっと軽快になり、わらべ歌みたいで親しみやすい。「いんくがく」を七音に変えてみるのも面白い。 「が」は「いんいち」という主体を表す格助詞だ。積が10未満の場合に使われるので、十の位の空位を意識させる役目もある。でも、取り立て助詞の「は」を使うと、「いいか、いんいちは1だぞ。」と強調できる。それに数式の「1×1=1」と結びつくので、今度、かけ算九九を考えた人に相談したい。誰だ。 もっとも、「いんいつがいつ」は「いんいちがいち」と発音が似ているし、「つ(tsw 歯茎破擦音)」 は「ち(tci 歯茎硬口蓋破擦音)」より、「はい、チーズ」みたいに口角を引っ張らないといけないので疲れてしまう。口角は上がるから若く見られるかもしれないが 。 ORANGE RANGE「花」のラップの部分に合わせて「一の段」を唱えてみたら、ぴったりノッタのでびっくりした。そういえば、高見順の「われは草なり」をラップのリズムで群読した時、草の生命力がほとばしったようで感動した。これも、七音五音の詩だ。 「よし、ラップのリズムだ。」と教えようとして、新たな壁にぶち当たってしまった。 「1」は「いん」と「いち」。「3」なんか「さん」「さ」「ざん」そして、はるばる来たぜ「さぶ」ちゃんだ。 手強いなあ、日本語。 雨の休日。芽吹きに力を振り絞っている草木のための雨だ。 「しらねあおい」が咲いていた。「くまがいそう」ももうすぐだ。「熊がいそう」な場所に咲く、と思っていた人がいて、大笑いした。

かけざん九九を教える 

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  外国から日本の小学校に転入してきた子に、かけ算九九を教えるという貴重な機会を得た。  とても素直で、明るい子だ。以前の学校では授業は英語。英語の発音が流暢で感心した。かけ算九九を教えるにあたっては、直接法ではなく、英語を補助言語として使うことにした。それは、次の理由からだ。 その1    低学年の子どもにとっては「何」を学ぶかより、「誰」に学ぶかが大きな学習動機になる。まずは、話すことから信頼関係を築くことが始まる。久しぶりにこちらも英語を復習して臨んだ。「日本語ができない」と自分に自信をもてないでいる子に、「二つめの言葉を勉強しているなんて、すごい。」と信じさせる。誰だって自分を受け入れてくれる人には心を開くだろう。ほめ言葉もたくさん用意した。一番うけたのは「マーベラス」。サンドウィッチマン、ありがとう。 その2  言葉は、文字と音と意味だけでは存在しない。それまでの生活経験や学習経験、心にある風景など、その子の体験や記憶と結びつくと、言葉に彩りが生まれ、その子の言葉となって生きてくる。無機質な言葉はその子からすぐ逃げていってしまう。 その3 「時間」を料理する。これは、とてもやりがいのある課題だ。その課題は大きく三つあると考えた。  一つめは「総量」としての時間。全部で何時間何分、教える時間が確保できるのか。学習内容と関わってくる壁だ。その時間が分かったら、学ぶ側も教える側も共有するといい。「あと何日」「あと何分」「あと何問」と数えていくと、期待感や達成感が生まれてくるから不思議だ。ただ、焦りは禁物。  二つめは「間隔」としての時間。今日は30分間教えられる。では、次は何日後で何分間できるのか。明日か、あさってか、来週か。これは、学習効率、特に「定着」に影響することだ。やはり、「毎日、短時間」がいい。漢字学習と同じだ。あいさつがわりに「はっぱ。」と声をかけると喜び、うれしそうに「ろくじゅうし。」と返してくれた。これだって大切な学習活動だ。  三つめは、学習者の体力や心理面への時間的な配慮である。学校の通常の授業が終わってからの学習である。短時間が勝負だ。どんな工夫をしたら「残業時間」が楽しくなるか。答えは、努力を認めること。努力する場に立ち会い、努力を評価することを心がけた。疲れた時には甘い物。ほめられたらうれしい。「間違いがいくつ」でなく、「あと何...

いつものように

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朝7時、木いちごの白い花を見つけた。 うつむき加減に花をつけているから、もみじいちごだ。 白い花が、残雪に見えた。 いつもの季節に咲いた。 いつもの場所に咲いた。 いつものように咲いた。 そう思ったら、幸せな気分になって、深呼吸したくなった。 木いちごの花は初夏、オレンジ色の、甘く、でもすこし苦い果実になる。     かぜとなりたや   はつなつのかぜとなりたや   かのひとのまへにはだかり   かのひとのうしろよりふく   はつなつのはつなつの   かぜとなりたや             川上澄生 (「初夏の風」1926年)

こぶし・先駆け

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 こぶしは美しい花だ。  寒さと暖かさが拮抗している頃、こぶしは真っ先に花を咲かせる。まわりの木々が出番を見極めている頃、春に向かう道標のように咲き始める。  その白は素朴で、清貧の白だ。「よい香りがする」と誰かに教わった記憶があるが、人を寄せ付けないような場所に立っているので、いつも遠くから眺めて満足している。だから、どんな香りか知らない。それで十分だ。  先駆けは、しかし真っ先に花を終える。  清貧の白は、風に乗って颯爽と散るのではなく、茶色になり、しぼみ、みっともない姿をさらしながら落ちていく。やがて山桜や連翹(れんぎょう)、八汐躑躅(やしおつつじ)など主役級の花や新緑が登場すると、こぶしは視界から消え、どこにあったのかさえ分からなくなっていく。その格好悪い消え方が、いい。  こぶしは美しい花だ。         

百年先の楽しみ

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 枝垂れ桜がこの春も咲いた。友人が贈ってくれたもので、三春の滝桜の子孫だ。   この森に植えた7年前は、背が3尺足らずで、幼い幹をしていた。植えて3年目に初めて花をつけた。今は自分の背を追い越し、根をしっかりと張って支柱の助けが要らなくなり、独り立ちできたようだ。花の数は年々増え、花の色は美しい桜色になった。 「滝」のように咲くのはまだまだ遠いけれど、百年先が楽しみだ。  遠い未来に森の中でひっそりと咲き誇る滝桜。森に迷い込んでこの桜を見つけた人は「なぜこんな森の中に立派な滝桜があるんだ。」なんて、びっくりしてくれるかな。「昔々、村娘と若者の恋が実らず、その涙が桜になった。」なんて伝説が作られたら素敵だ。  百年先、運(行い?)がよければ自分は星になって、この桜を照らしながら昔話を語ってやろう。

悲しい幸せ

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  週末ごとに雨の日が続き、車窓から雨が降るのを眺めることが多かった。 「刷毛で掃いたような」は、雲を表現するのによく使われる言葉だけれど、刷毛を横ではなく上から下へ縦に掃いたように、雨は白く細く、静かに降りながらゆっくりと風に流されていた。風の刷毛は南から北に動いている。南風が目にも見えた。  すっかり春になった。  朝、森の中を歩いていると倒木を見かけた。いつ倒れたのだろう。盛んに生命を輝かせ始めた若い木の横で、倒木はひっそりと横たわっていた。春は厳しくもある。  それまで木として生きてきた。夏には葉を繁らせて木陰を作り、小さな木を強い日射しから守った。秋には種を落とし、その上に枯れ葉を掛けて冬支度をした。真冬、種を覆う枯れ葉や雪が飛ばされて種が凍らないように、北風を受け続けた一生。自慢することもなく、不満を抱くこともなく、朴訥(ぼくとつ)に。  引き際が来たことを悟り、春の嵐に背中を押されるように倒れた。土になって若い木の成長を見守っていくのが、これからの幸せなのか。  倒木に心があり、言葉があれば、何を想い、何を語るのだろう。 「春が来た 春が来た どこに来た  山に来た 里に来た 野にも来た」 (「春が来た」 高野辰之作詞 岡野貞一作曲)  ゆっくり静かに、歌ってやった。